一乗山 無二亦寺(むにやくじ)
無二亦寺は、日蓮宗(山梨県にある身延山久遠寺を総本山とする)に属し一乗山と号している。
本尊は宗門で定める十界曼荼羅を掲げ、日蓮聖人の木像を安置する。
開山は京都本圀寺の僧であった日輝で、元禄14年(1701年)、この地にやってきて当寺を開いた。
江戸時代には、水戸藩の保護を受けて栄えたが、幕末に徳川斉昭が断行した廃仏毀釈によって廃寺となり明治10年頃にようやく再建された。
すでに、その法灯は300年を超えて継承されているが、仏教寺院としてそれ程長い歴史ではない。しかし此の間、当山が歩んで来た道は決して平坦なものではなかった。
享保年間の火災、天保の御取潰し、大正10年の大火と、三度にわたる危機を乗り越えて今日に至っている。
このようにみてくると、無二亦寺は水戸の徳川家と深い関係を持ち、神社を寺にとりこむことに成功した点が注目される。その信仰は、現世利益の祈祷という面がもとから相当に強かったようである。
文:昭和50年3月15日発行「勝田市史」(民族編)より
無二亦寺縁起より
無二亦寺が創建されたのは、この地から青銅製の経筒が出土したいわれによる。
高さ12cmほどで六角形には数十字が刻み込んであり光圀という人が法華経一部を納めたことが記されていた。
当時、現代の常陸太田市に久昌寺を建てるなど、日蓮宗に手厚い保護を加えていた徳川光圀は、このことを聞いて一寺を建立することを思い立った。
元禄10年(1697年)に60石の地が除地として寄せられ伽藍を造営したが、開堂は光圀の生存中に間に合わず元禄14年(1701年)の春に供養された。
その翌年の元禄15年(1702年)に日遙が第二住職として入寺すると、藩の命令によって市毛・津田・田彦に住む者は全て無二亦寺の檀家に定められた。
同時に、市毛の鹿島、吉田両明神は三十番神に、津田の鹿島明神も三十番神に、田彦の熊の三社権現は七面大明神にそれぞれ定められた上で、無二亦寺の支配にまかせられた。
文:無二亦寺縁起より



